読了本ストッカー:現実と幻想の境目が曖昧なのか? 逆に現実が勁すぎるからこそ、神話が立ち上がるのか?……『エレンデイラ』


2014/4/9読了。

◆「大きな翼のある、ひどく年取った男」
……ある日海岸沿いの町に墜ちてきた超みすぼらしい男。羽根が生えているので……天使らしい(!)。そこで巻き起こる騒動を描きます。ま、騒動らしい騒動は起こんないんですけど。そこがまたマルケスらしいっつーか。

◆「失われた時の海」
……なんかフツーにスタートした物語が、突然不可思議なことが起きることで、とたんに神話的な輝きを帯び始める瞬間。これこそガルシア=マルケスの真骨頂だと思うんです。例えば
ハーバート氏が眠りはじめてから長い時がたった。ある日、神父がヤコブ老人の家の戸をたたくと、中から鍵がおりていた。眠っている男の呼吸のせいで空気が薄くなり、家のなかのものが少しずつ軽くなりはじめた。中には宙を漂っているものもあった。
とかね! 
それにしても……二酸化炭素はどこいった!?

◆「この世でいちばん美しい水死人」
……美しい水死体「エステーバン」をめぐる騒動を描いた短編。

◆「愛の彼方の変わることなき死」
……
上院議員オネシモ・サンチェスは六ヶ月と十一日後に死を控えていたが、その日に生涯を決定づける女性と出会った。
まさにこの一文がすべて!
トラックで運ばれてきた芸人やインディオたちが、いつものように準備を始めた。彼が演説をしているあいだに、助手たちがひとつかみの紙の小鳥を宙に放つと、その折り紙の動物は生命を得て、木造の演壇の上を飛び回り、やがて海のほうへと飛び去っていった。
これが不可思議発動の瞬間!

◆「幽霊船の最後の航海」
……これがいちばん好きかなぁ。SFぽい感じが好きです。
幽霊船をみた少年が、暗礁に乗り上げ消えてしまったそれを、ルールを見つけて、海岸に導いて座礁させる物語……あれ? そんなストーリーだっけ?
幽霊船「ハラルクシラグ」を描写する部分、
無数と言ってもよい船窓に灯ひとつなく、エンジンの吐息は聞こえず、人影も見当たらなかった。巨船が運んでいるのはそれ自身をつつむ静寂、それ自身を覆った空虚な夜空、それ自身のうちに澱んだ空気、それ自身の停止した時間、溺死した動物のすべてが漂っているそれ自身の放浪の海だったのである。
が素敵!

◆「奇跡の行商人、善人のブラカマン」
……行商人ブラカマンと同行して奇跡を演じるうちに、本当に奇跡を起こせるようになっちゃう男の話。なんだか佐藤亜紀氏の筆致に似てます~。

◆「無垢なエレンデイラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」
……ラストはどうなんだろう……解放されたのかなぁ?

訳者のひとり木村榮一氏によるあとがきが素敵です。
ガルシア=マルケスに代表される「マジックリアリズム」の諸作を指して、よく「嘘じゃない、本当のことを書いているだけだ」といわれますよね。
このあとがきでも
キューバの作家アレホ・カルペンティエルは、ラテンアメリカにおいては現実そのものが驚異的なので、シュルレアリストのように人工的に驚異を作り出す必要がないとのべている。
と書かれています。いつも、そりゃさすがにないだろ!と思っていたのですが、ここにひとつのエピソードが紹介されています。

あるイタリアの民族学者が、面白い物語詞のバラッドを採集します。山の妖精がひとりの若者に恋をし、若者に婚約者がいることを知った妖精は嫉妬にかられて若者を断崖から突き落としてしまう。死体は村に運ばれ、婚約者である娘が、純真な乙女の祈りを読謡する、という内容です。
その民族学者は、さまざまな変型をもち、大昔に起こったと言われるこの出来事の年代を特定しようと調査を開始します。

すると、なんと事件はわずか四十年前に起こったこと(!)で、バラッドに謡われている婚約者の娘もまだ生きている(!)ことが判明! 当然起こった事件(足を踏み外して転落した若者がいた)は事実ですが、山の妖精はまったく関係ありません。バラッドを伝える村人たちに真実を伝えても、誰も信じなかった(婚約者の娘はショックで妖精のことを忘れている)とのことです。
つまり、四十年前のありふれた事件は山の妖精の報われざる恋と嫉妬という要素を取り込むことによって、神話的な性格をおびることになり、若者は悲劇的な死を遂げた祖型的人物に近づけられて、民衆の記憶にとどまることになる。
そう考えると、マジックリアリズムマジックリアリズムたらしめているのは、この神話的なアーキテクチャ、なのかな?
それを可能にする南米の勁さとは、一体何なんでしょうね? 現実と幻想の境目が曖昧なのか? 逆に現実が勁すぎるからこそ、神話が立ち上がるのか?
とにもかくにも、素敵な短編集でした。