読了本ストッカー:『やっぱり世界は文学でできている 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義#02』沼野充義/光文社


2015/10/16読了。

【対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義】シリーズの第二弾。
前著『世界は文学でできている 対話で学ぶ〈世界文学〉連続講義』は、リービ英雄平野啓一郎ロバート・キャンベル飯野友幸亀山郁夫、各氏との対談でしたが、本書では下記の方々。

◆「#01あらためて考えるドストエフスキー亀山郁夫×沼野充義

山田耕筰は)要するに、プロコフィエフはヨーロッパ音楽の伝統を前提にして「革新、革新」と言っているけれどそれはたいしたことではない。日本人は西洋音楽の伝統をそもそも持っていないところでいきなりすべてを吸収しているわけだから、バッハもスクリャービンも順番を無視して、全部一緒に入ってくる。こういう経験のラディカルさは、西欧人は知らない、日本人のものだと言っているわけです。


◆「#02美しいフランス語の行方」野崎歓×沼野充義

ヨーロッパに豊かな文学があるということについては、ほとんど無知だったわけです。それが明治になって、ごく短期間の間に、すべてのものがドーッと押し寄せてきた。ヨーロッパにはイギリスやフランスの文学が先行し、ドイツやロシアの文学は遅れがちだったという事情があって、そこには自ずと文学史的な時間差や発展の順序、価値の序列といったものがあるのですが、日本はそういう秩序とは無関係に、すぺてを見境なく、同時に受け入れるしかなかったわけです。
ロシア文学も、ヨーロッパに比べれば新興国だったアメリカの文学も、十六世紀のイギリスのシェイクスピアやスベインのセルバンテスもすぺてが入り乱れて、時を超えた乱闘を繰り広げた。


◆「#03世界文学の始まりとしてのアメリカ」都甲幸治×沼野充義
◆「#04太宰とドストエフスキーに感じる同じもの」綿矢りさ×沼野充義
◆「#05日本語で書く中国の心」楊逸×沼野充義
◆「#06母語の外に出る旅」多和田葉子×沼野充義

引用した文章は、日本に文学が押し寄せてきた明治に関する部分。系統だって渡来したわけでは当然なかったわけです。そうなると、日本のアニメを一斉に(時制関係なく)見て育つ韓国の若者や、過去の特撮を自由に見れる日本の子どもたちや、そういったところから、何かが生まれるのかもしれません。
「やっぱり過去の名作を時系列にみなくては」というマニアの態度では、何事も進歩しないのかなと感じました。