読了本ストッカー:自分の中の<こども>と、そして現実のこどもと向きあう本……『氷の海のガレオン/オルタ』

氷の海のガレオン/オルタ (ピュアフル文庫)


木地雅映子


ピュアフル文庫


2008/7/1読了。


 


新刊『悦楽の園』の出版時、<ダ・ヴィンチ>で紹介されていて、知りました。なんだか面白そうだったため購入。


表題作「氷の海のガレオン」の主人公は、<自分を天才だと思っている>杉子十一歳。クラスメートが皆幼く見え、教室ではいつも本を読んだりして・・・多かれ少なかれ、みな共感と嫌悪とを覚える、はず。


しかし人の親となった記述師としては、どうしても母親の視点に感情移入してしまいます。杉子の母親、科子さんは、言うなれば記述師の青春小説オールタイムベスト『ぼくは勉強ができない (新潮文庫)』の母親の<迷いがあるバージョン>(『ぼくは~』の母親に迷いがないとはいいませんが)。
違和感を感じて青春を過ごした少女が大人になり、子どもを持ち、その子どもが自分と同じように違和感を感じていることに痛みを覚える。なんだかんだいって適応してイイ子ちゃんできた記述師とは、全然違いますね・・・。


大人ならだれしも、<学校に違和感を感じていた早熟だった自分>というものに憧れを覚えるのではないでしょうか。たぶん実際はサルのようだったんでしょうな~、サル(恥ずかしい)。特に違和感なんて感じていなかった(気がする)し、そんなにつらい毎日でもなかった(気がする)のが現実。


なので、娘には<学校に違和感を感じる大人の視点=今現在の記述師(父)の視点>を持った子どもになってほしい、な~んて思いますが、そんなセンシティブにはならない、きっと。


藤田香織氏は、巻末解説で、



おそらく、木地雅映子さんの描く物語は、一般的に広く浅く好まれる=商業的に爆発的なセールスを記録するものではないでしょう。


と書いています。それは杉子の小学校時代が(誤解をおそれずに言えば)<悲惨な時期>だからではないでしょうか。その時期を通過して高校時代にでもなれば、『ぼくは勉強ができない』のように価値観を共有できる<仲間>の存在がでてくるかも。だから『ぼくは~』は新潮文庫の夏の百冊にも入るくらい商業的にも成功しているのでは、と思いました。


『ぼくは~』の主人公を認めるのがその母親と祖父ですが、杉子にとっては兄、弟の存在が大きいはず。これが独りだとさらに悲惨だろうし。


「オルタ」「オルタ追補、あるいは長めのあとがき」の2編は、木地氏のノンフィクションでしょうか。これは来年幼稚園へ上がる子どもを持つ親にとっては、結構衝撃的、かつ現実的な話。そうだよなぁ、こんなことが起こったらどう対処するか・・・。深く考えさせられる本でした。