読了本ストッカー:エキサイティングな「探偵小説」論!……『探偵小説と二〇世紀精神』

探偵小説と二〇世紀精神


笠井潔  東京創元社


2007/3/30読了。


3/12に図書館で借りて以来、暇を見つけてはゆっくりと読み進めて、ようやく読了。いや~難しかった(汗)。


エッセイにカテゴリ設定しましたが、評論集ですね。『ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?―探偵小説の再定義』の続刊となります。


前半では「形式体系と探偵小説的ロジック」と題して、クイーンの『シャム双子の謎』『ギリシア棺の謎』を題材に、メタ証拠、メタ犯人という「操り(マニピュレーション)」の問題などを検証。後半は「第三の波とポストモダニズム」と題して、探偵小説の現状と今後を語ります。


笠井氏は「探偵小説は20世紀固有の小説形式である」として、いろいろな媒体で語っています。いわく・・・



人類がはじめて経験した大量殺戮戦争である第一次大戦と、その結果として生じた膨大な屍体の山が、ポオによるミステリ詩学の極端化をもたらしたのである。戦場の現代的な大量死の体験は、もはや過去のものかもしれない尊厳ある、固有の人間の死を、フィクションとして復権させるように強いた。


機関銃や毒ガスで大量殺戮され、血みどろの肉屑と化した塹壕の死者に比較して、本格ミステリの死者は、二重の光輪に飾られた選ばれた死者である。犯人による、巧緻をきわめた犯罪計画という第一の光輪、それを解明する探偵の、精緻きわまりない推理という第二の光輪。第一次大戦後の読者が本格ミステリを熱狂的に歓迎したのは、現代的な匿名の死の必然性に、それが虚構的にせよ渾身の力で抵抗していたからではないか。


つまり19世紀的、教養主義的小説観で「人間が書けてない」とか言っても無意味なわけです。20世紀に「人間」なんて存在しないのだから。


一番興味深く読んだのが、「ゲーテル的帰結」の問題。
よく二時間ドラマや時代劇で、「証拠が揃いすぎてるのが怪しい!」などと主人公が言ったりしますが、そんな簡単なものじゃなかったんですね~。
法月綸太郎氏の次の発言が引用されています。



ギリシア棺の謎』のようなメタ犯人――ここではさしあたって、偽の犯人を指名する偽の証拠を作り出す犯人、と定義しておく――の出現は、「本格推理小説」のスタティックな構造をあやうくするものである。メタ犯人による証拠の偽造を容認するなら、メタ犯人を指名するメタ証拠を偽造するメタ・メタ犯人が事件の背後に存在する可能性をも否定できなくなる。


笠井氏も繰り返し次のように述べています。



メタ犯人を作中に導入することは、探偵小説における斬新なアイディアや奇抜なトリックという次元を超えて、泥沼にも似た形式の無底性を露わにする。


つまり「自己完結的な論理形態は、その系の中で自らの真偽を判断できない」という「ゲーテル帰結」に行き着いてしまうわけです。証拠を偽造した犯人、の証拠を偽造した犯人、の証拠を偽造した犯人・・・・という連鎖を避けるためには、作者が物語を終わらせるしかありません。つまりそこには、作者の「意思」が存在します。



こうしたメタレベルの無限階梯化を切断するためには、別の証拠ないし推論が必要だが、その証拠ないし推論の真偽を同じ系の中で判断することはできない。ということは、この時点で再び『作者』の恣意性が出現し、しかもそれを避ける方法はない。


というわけです。探偵小説である以上、解決の場面では新しい証拠などを持ち出すことは許されていません。つまり作者の「意思」「自由」は拘束されているのです。なのにメタ犯人を持ち出した途端、作者の「恣意」が出現してしまう。探偵小説自体の存在が危うくなってしまう、ということ、だよね?(わかんなくなってきた)
巻末の笠井氏と法月氏の対談の中でも、笠井氏は



『バイバイ・エンジェル』のとき、本質直観を一種の知的アクセサリーとして導入したんですが、二十年経って見返してみると、法月君の言う後期クイーン的問題に対するあらかじめの解答だったことがわかってきた。(略)作品空間の内側にいるキャラクターにとっては、どこからどこまでが問題なのかわからないわけですよね。国名シリーズでは「読者への挑戦」で作者が出てきて、ここまでが問題ですと言うが、矢吹駆の場合は探偵が本質直観という名目で、考えるべきはこれこれの問題なんだ、と先に読者に対して明らかにする。(略)論理的謎解き小説にとって必然でもある、メタレヴェルがオブジェクトレヴェルに下降してくる部分を、本質直観と名付けたというか・・・・・・。


と語っています。笠井氏はそういう方法で、この問題を回避(?)してたわけですね。深い・・・深すぎる。こんなこと考えてたんじゃぁ、二人とも寡作にもなろうというものですよ~。


後半では、本筋とはあまり関係がないのですが、「アメリカニズム」に関する記述がなるほどと思わせてくれました。「自由の国」であるはずのアメリカが、どうして全体主義的な様相を見せるのか、ずっと気になっていたので、ちょっとすっきり。
ナチズムやボリシェヴィズムに対抗する勢力として存在したアメリカニズムは、全体主義に対抗するものとして認識されていたけれど、前世紀の精神(独立宣言やフランクリンの名前で記憶される精神と笠井氏は書いています)とは断絶されてしまっているものなんだそうです。前世紀からの連続性を偽装しているだけで、本質的にはナチズムやボリシェヴィズムと同様に、近代的な人間観や社会観を否定した物語に過ぎない(ちょっと一面的な理解ですが)わけです。「大衆的欲望の無限肯定」による大量生産大量消費の総体がアメリカニズムということでしょう。


巽昌章氏が『新本格』について語った、



飛躍した連想、予想外の要素の結びつけ、突飛な偶然の取り込みといった強引な論理が行使され、かけ離れたものたちが結び付けられることによって、隠れていた巨大な構図があらわにされるというカタルシスは、本格推理小説の持ち前といってよいものです。それが、極端にかつかなり意識的に追求されてきたのが『新本格』の時期だった。


という文章が引用されていますが、初期の推理小説は、その「謎を解く」というシステム自体が20世紀的現実(第一次世界大戦)を直接反映している以上、謎は解かれるだけでよく、その背後に「過剰な構図や世界観」が見え隠れする必要はなかったわけです。犯人の動機も単なる自己保身でかまわず、名探偵も謎を解く意味について考える必要はありませんでした。「たんなる謎解き小説、論理パズル小説に自足」していたのです。
しかし第一次世界大戦の経験が風化する過程と反比例するように、「過剰な構図や世界観」がが作中に持ち込まれるようになります。つまり



大量死という暴力的な現実は、作者と読者が不可避に共有する時代的な前提から、知的に反省されなければならない対象にまでリアリティを稀薄化したともいえる。


ということです。作者と読者が前提となる「物語」を共有できなくなった以上、作品の中に新しい「物語」が必要になったのでしょう。なるほど、だからむやみやたらにシリアルキラーとか出てくるのか。


今回の紹介文は引用ばっかりな上にまとまりも流れもないのですが、記述師の覚書と思ってお許し下さい。


とてもエキサイティングな読書でした。脳味噌はつかれたけど。