読了本ストッカー:宮沢賢治と金子みすゞの受容のされ方への疑義……『平成22年度国際子ども図書館児童文学連続講座講義録「日本の児童文学者たち」』国立国会図書館国際子ども図書館

◆「賢治童話と子ども読者/宮川健郎」
◆「南吉童話の闇と光/遠山光嗣」
◆「金子みすゞ-読みものとしての童謡/藤本恵」
◆「石井桃子/小寺啓章」
◆「〈ヴィジュアル・ストーリーテラー赤羽末吉〉の世界/吉田新一
◆「日本の児童文学者たち-参考図書紹介/大幸直子」

平成22年度は、「日本の児童文学者たち」というテーマ。
これまでは児童文学に関する概説みたいな講義が多かったのですが(それはそれで面白いけど)、本書では、個別の文学者たちに焦点を当てた講義が多く、とても興味深く読みました。

たとえば、宮沢賢治。宮川健郎氏は、「永訣の朝」が掲載された教科書の教師用指導書にある「主題」を引きます。
瀕死の床にある妹への愛情と、永訣の悲しみ、それを超えた万人の幸福の祈り。
最愛の妹の死に臨んで、作者は深い法華経信仰に基づく天上界への希望を見いだし、死に対する恐れと悲しみ、いとおしい者を失う喪失感を、〈天上界への転生〉という希望へと昇華させていく。死んでゆく妹、そして他者のために、自己の「すべてのさいはひ」を捧げようとする作者への思想から生まれる崇高さが、詩の主旋律である妹への鎮魂を深い祈りで彩っている。
その上で、

ここでは「主題」の中に「法華経信仰に基づく」とかそういうことが入り込んでいて、作品だけから受け取れることを教えるだけではなくて、その背後にある作者の思想のようなものを合わせて教えようとしている。(中略)そのことが子どもたちにとってよいかどうか。作品だけでなく、作者の思想や生涯を合わせて教えることの是非といったことを感じています。

と述べます。
さらにこのあと一つのエピソードとして、妹の「命旦夕に迫る」ことを知らされた賢治が、夜8時30分に妹を亡くす前、夕方に国柱会(賢治が信仰していた宗教団体)のお偉いさんを花巻駅まで迎えに行き面会をしていたという挿話が語られます。
無論「永訣の朝」は傑作だけれど、現実を生きる賢治は、それ以外のこともしている。
妹が危篤状態のとき、抜け出している。そういったことから目を逸らし、感動的な鑑賞に終始している。

 「永訣の朝」が一つの自立した作品だとすると、その背後に割とストレートに作者の思想や生涯を重ねて見ることの是非について、改めて考えさせられてしまいます。(中略)ただ「永訣の朝」に限らず、賢治の作品は賢治の生涯や伝記とくっつけて教えることが割合普通です。(中略)作品といわゆる賢治神話、賢治にまつわる様々な神話化された事柄を一緒に扱って教えようというところが教科書にはあって、授業でもそのような場が多いのではないかと思いますが、そのことがいいかどうかということです」

同じことは金子みすゞにも言えます。

「この詩人が歌っているのは「深いやさしさ」であるとか、それから弟さんの思い出話として、小さい頃彼女は「だれにでも好かれる、人のいやがることは決して言わない、やさしい少女だった」。最後に「私と小鳥と鈴と」を紹介する前にも、みすゞはこの世に存在する全てのものに「深いやさしいまなざしを投げかけ」ているとあります。このようにみすゞの詩や童謡、あるいは人物イコール「やさしい」という一種の公式が作られたと思います。
良くも悪くもこの枠組みの中でみすゞの詩は受容されていきます。(中略)教科書の指導書を見ても同じ枠組みの中で紹介されることが多いです。作者の優しい視点を感じ取りましょうという学習目標で、彼女の詩は解釈され受容されていくことになるのです」

 そうした見方に対し、詩の作り方・技法の観点などから異論を唱えた川崎節子氏の「教科書に入った金子みすゞの童謡詩」が引用されています。むちゃくちゃ面白いので、孫引き!

 教育現場の多くでは、「一人一人が違うことの良さ」として、この詩の主題を規定しているが、それは臨教審の「世界の中の日本人」を育成するための重要な柱の一つである「多様な文化の優れた個性を深く理解する能力」を強調しようとするあまりに主題を歪曲したのではないだろうか。金子みすゞの詩そのものの中には、自己の内面をみつめる姿勢があるだけであり、この世の中の人々一人一人を示唆などしていない。
(中略)
この村中(李衣)の指摘をさらに分析する形で、「みんなちがってみんないい」を、「他者との対立点」を含むものとしてとらえる人に詩人長谷部奈美江がいる。長谷部は「彼女は『みんなちがって、みんないい』とお札のように繰り返す人たちとは違って他者との対立点がちゃんと見えていた」と、詩人の「こだわり」の構造をときあかしている。
みすゞの詩の中の「わたし」とは、詩を書くことによってのみ、自分自身の存在を自覚している当の本人であり、「みんなちがってみんないい」とは、みんなの生き方のことを言っているのではなくて、「わたし」自身の生き方を言いたいために使った言葉なのである。すなわち「みんなちがってみんないい」とは、違ったみんなの多様性や個性を認め合おうという意味で使っているのではなく、「みんなと違う自分を貫いて生きる」という詩人自身の自己意識、自己肯定の意思であることを、村中も長谷部も指摘しているのである。
教育現場では、みすゞの詩の「みんなちがってみんないい」が、詩人の強烈な自己意識の表れにほかならないことを軽視している。教科書本文中の解説や、指導書の主題、また道徳副読本もすべて、「人はみんなそれぞれに良さがある」ということを主張する詩として解釈している」 
なんという見事な指摘でしょう!
これらの論を書いた人たちの著作を読んでみようと思います!