読了本ストッカー:『薄桜記』五味康祐/新潮文庫

薄桜記 (新潮文庫)
五味 康祐
新潮社
1965-05-02

2015/5/11読了。

いつもながら、現代の倫理観ではない「武士の倫理観」が満載。五味作品を読めば、武士道礼讃めいた底の浅い日本万歳論なんていえなくなりますよ。

心から心服していた亡君の怨を報ずるためなら誰でも艱難辛苦するだろう。そういう所謂《復讐》でなかったところに彼等の本当の偉さはあったので、赤穂義士の立派さは、『忠臣蔵』などが喧伝しているのとは大分性質の異ったものだった、ということを今の吾人はもう冷静に見究めていいのではないかと思う。
誰だって、迫幕してやまぬ明君の怨を報ずるなら人情としても参加出来ることである。併し主君の方が明らかに吉良上野介に較べて落度があった。人間的にも欠陥が多かった―と知悉しながら、猶、臣たるものの道に殉じていった一同と、一同を統率した大石良雄の人間的憮悩やその器量の大きさは、どれほど強調してもしすぎることはあるまいと思う。大石は山科閑居のつれづれに廓通いをした。人はそれを吉良の付け人の目を欺くためだったと簡単に割切っているが、果たしてそうだったか?



「いつぞや、こんなことを申しておった。上野介どのが赤穂浪士に不穏の動きあるのを薄々は耳にしながら、平気で警護の友も連れず茶会に出たり、俳人と往来いたすのを見てな、吉良家には武士道の心得ある者はおらぬのか、と」
「?……」
「丹下どのに言わせると、狙わるる人は常に寝所をかえ、昼夜用心をきびしくして、行路に敵ありと聞かば脇道を通り、道をかえ、出会いたりとも、どのようにしても討たれぬよう退くを誉とすべし。血気の勇者はこれをそしるとも、或いは卑怯というとも苦しからず、小人の勇は用うべからず、これが武士道と申すものじゃ。死力をつくして討とうとし、死力をつくして討たれまいとするきびしい争い、これが武士道にかなった敵討であろう、可哀そうだから討たれてやろうなどというのは、真の武士の態度ではない。そう言うておった」