読了本ストッカー:訳した本人の話が一番面白い!……『翻訳文学ブックカフェ』

翻訳文学ブックカフェ


新元良一  本の雑誌社


2007/10/1読了。


図書館で借りました。そういえば、本の雑誌社の単行本は初めてだなぁ。ジュンク堂池袋店で行われたトークを収録したものです。


<翻訳>ということに興味を持ち始めて、なんとなく営業中も<翻訳論>のコーナーとか、語学棚の翻訳コーナーとかを覗いたりしてるのですが、どうやら品切れが多い模様。ちくま文庫からけっこうでてるハズなんですが、見つからないんです。本書は別に品切れではない(と思います)ですが、図書館で偶然見つけたので読んでみました。トーク者名の後の書名は、そのページに出てきた読んでみたい本です。



若松正氏
『乱視読者の帰還』  若松正  みすず書房



若松氏といえば、やはりリチャード・パワーズでしょう。『舞踏会へ向かう三人の農夫』『ガラテイア2.2』・・・当然記述師の探求本リストに入っていますが・・・ハードカバーだしね。文庫化、されないよねやっぱ。とりあえず『乱視読者の帰還』でも読もうかしら?



わたしは、翻訳というのは翻訳者が理解したその本の総体だといつも言っております。 (中略) 原書を読んでいて何カ所かウッと胸がつまる場面があるんですよ。そうすると自分の胸がつまったところについては、翻訳を読んでいただく人にも胸がつまるような書き方をしたいとやっぱり思う。だからある意味では小説家みたいなつもりで翻訳をするところも少しありますね。


柴田元幸
『シカゴ育ち』  スチュアート・ダイベック  白水Uブックス



柴田氏はオースターだったり、ミルハウザーだったり、超有名どころを約されていますし、たぶん日本で一番有名な翻訳家ではないかと思います(記述師程度の本読みでもその名前は知っているわけですし)。今回のトークでは、柴田氏が訳している作家の中でも<比較的>地味な、スチュアート・ダイベックが題材として取り上げられています。柴田氏べた褒めの『シカゴ育ち』、読んでみたいなぁ。



ダイベックの登場人物たちはみんな、脇役であっても主人公と同等の存在意義を持っているんです。それに対して、オースターやミルハウザーの小説だと基本的に登場人物は一人だと思っていい。たとえば、オースターだと、まず主人公がいてその主人公にとって自分の人生は一分の一なんだけれども、その他の登場人物たちっていうのは主人公にとっての一分の〇・いくつの存在だと思うんですよ。
ところがダイベックの場合は、いろんな人間の人生の軌跡みたいなもの、いろんな人間の人生が混ざり合う交点みたいなものを描いていて、その交点のなかでどの人の人生もその人にとって一分の一なんだってことがよく伝わってくる。そういうものを本物の小説だと定義するなら、やっぱりダイベックがいちばん本物の小説家だろうって僕は思うんです。


岸本佐和子
フェルマータ』  ニコルソン・ベイカー  白水Uブックス
『もしもし』  ニコルソン・ベイカー  白水Uブックス
『中二階』  ニコルソン・ベイカー  白水Uブックス
オレンジだけが果物じゃない』  ジャネット・ウィンターソン  国書刊行会
さくらんぼの性は』  ジャネット・ウィンターソン  白水Uブックス
『気になる部分』  岸本佐和子  白水社



超絶の脚注小説として有名な『中二階』の噂は聞いていましたが(読んでいないことを婉曲的に表現してみました)・・・こりゃあ白水Uブックス買い占める事になりそうだな(は~)。



(翻訳していて、自分だったらこう書くのに、ということは思われますか)
ありません。そう思う人は作家になればいいわけですから。もちろん、そういう人もいらっしゃるかもしれませんが、私は思わない。もともと翻訳の先生から、とにかくどんな作家でもこの人は最高、この作品は最高と思って訳さないとダメって叩き込まれたせいもあるんでしょうけど。


鴻巣友季子
侍女の物語』  マーガレット・アトウッド  ハヤカワepi文庫
『昏き目の暗殺者』  マーガレット・アトウッド  早川書房
『翻訳のココロ』  鴻巣友季子  ポプラ社
『恥辱』  J・M・クッツェー  早川書房



『昏き目の暗殺者』も文庫化を待っているところなんですよねぇ・・・。鴻巣氏は<翻訳>の役割、意味という点について非常にわかりやすく話されています。



つねづね思っているのは、文学作品には時代によって「読まれたがっている」部分があるということなんです。たとえば村上春樹さんの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で言えば「You」をはっきりと相手を特定する「君」と訳すことによって、神経症的な少年像が浮かび上がってきた、翻訳がそういう世相を映し出す鏡になっている。それは、今の時代によって「読まれたがっている」部分を村上春樹という訳者がすくいとったということだと思うんです。じゃあ、以前の野崎孝さんの訳が原文に忠実じゃなかったのかというとそれは違いますよね。あの時代に「読まれるべき」部分に対して忠実だったのだと思います。


ホリー・ゴライトリーの決めゼリフの「ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自身というものは失いたくない」ってセリフの中のティファニーにも「ニューヨーク五番街にある有名な宝石屋で、食堂はない」って訳注が入ってる。それって「ティファニーで朝食を」という言葉が持つ実体のない美しさをある意味ぶち壊していて、でもそうしない限り意味も伝わらないっていう翻訳のジレンマがよく出ている箇所で、私は非常に愛してるんですけど(笑)。で、今訳すとしたらその手の注がほとんどいらないだろうから、全部とっぱらってみればどんな作品の顔があらわれてくるのかなと。


青山南
ケロッグ博士』  T・コラゲッサン・ボイル  新潮文庫
『血の雨』  T・コラゲッサン・ボイル  東京創元社
『もし川がウィスキーなら』  T・コラゲッサン・ボイル  新潮社
『この話、したっけ?』  青山南  研究社
アメリカ短編小説興亡史』  青山南  筑摩書房



くぅ~T・コラゲッサン・ボイル・・・読んでみたい~!(『ケロッグ博士』、さっそく手に入れました。105円で(笑)。



よく言われることですが、単語の意味がいろいろ見えてきちゃって怖くなるんですよね。 (中略) この言葉にはもっと別の意味があるんじゃないか、自分が気づいてないだけなんじゃないか、とかね。そうするとどんどん怖くなってくる。余計なことを考えないでとっとと訳したほうがいいんだろうけど、なまじ思い入れがあると止まっちゃうし、のろくなりますね。


(インターネットなどで調べる以外に作家本人に問い合わせはしますか)
あんまりないですね。インターネットが重宝だということもありますが、書いた本人がその小説についていちばんよくわかっているという考え方は間違っていると思うんですよ。つまり、小説というのは書いた人のものではなくて読む人のものだから。


柴田元幸
『イン・ザ・ペニー・アーケード』  スティーヴン・ミルハウザー  白水Uブックス



二度目の登場となる柴田氏。今回はミルハウザーを中心としたトークです。<レイモンド・カーヴァーのフランス語の訳者>の話は有名ですよね。



レイモンド・カーヴァーのフランス語の訳者が、カーヴァーの小説を読んで、この人はすごくクールでアイロニカルな作家であると思って、小説もクールでアイロニカルな文体で訳したそうです。で、いざカーヴァーに会ってみたらすごくあったかい、ぜんぜんアイロニカルじゃない人で、あっ、自分の読み方は間違っていたと全部訳し直したというんです。それが一種の美談として語られているんですけど、そんなのぜんぜん間違ってる。作家の印象と作品の印象と、訳す上でどっちが大切かといったら、作品の印象に決まってますよ。作家がこういう感じだからこう訳すっていうのは変な話です。それまでの読み方が無責任だというかね。


上岡伸雄
『ホワイト・ノイズ』  ドン・デリーロ  集英社
アンダーワールド』  ドン・デリーロ  新潮社
『ボディ・アーティスト』 ドン・デリーロ 新潮社
コズモポリス』  ドン・デリーロ  新潮社



ドン・デリーロってまったく知らなかったんですが、上岡氏の話を聞いてるだけでむちゃくちゃ読んでみたくなります。


小川高義
『調律師の恋』  ダニエル・フィリップ・メイスン  角川書店
『骨』  フェイ・ミエン・イン  文藝春秋




村上春樹氏の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』について)
それについて私は揺れています。一つには、たとえばクラシック音楽の場合、優れた楽譜を演奏者や指揮者が原典に忠実に演奏することも、彼らの個性でもって大胆に解釈して演奏することもあるわけですよね。そして、聴衆はそれをわかった上で選ぶことができる。だから、文学作品に関してそれがあってもいいかもしれない、とも思う。
(中略) 私が考えるに、さっきも言ったように個性的な訳をしていいのは非常に少数の、それをすることによって翻訳本に違う価値を付加できるような人だと思うんです。ごく一般的に翻訳家と言われる人々ではなくて。ですから、私自身はなるべく原書に忠実に、魅力を伝えることができるような訳を心がけたいと思っています。


中川五郎
『詩人と女たち』  チャールズ・ブコウスキー  河出文庫
『くそったれ!少年時代』  チャールズ・ブコウスキー  河出文庫



ブコウスキーかぁ。その昔『パルプ (新潮文庫)で挫折したんですよね・・・。今はエアギターで有名な金剛地武志の伝説的(?)バンド <Yes,mama ok?>のアルバム『砂のプリン』に収録されていた「記憶喪失の女」っていう曲が大好きで、私立探偵=「記憶喪失の女」っていうイメージで読んでたんですが・・・なんだかね。まあ『パルプ』は柴田元幸氏の翻訳ですし、中川氏の翻訳はまた違うようなので読んでみようかな?



(『くそったれ!少年時代』で主人公の一人称を<俺>ではなく、<私>にしたことに関して)
一人称は何がいいかってすごく考えたんです。朝から夜まで飲んだくれて、女の人に次から次に手を出して、品がないというか、汚いことやってるわけですが、その人物を「俺」としちゃうと、ただの下品なオヤジになっちゃうんじゃないかと思って(笑)。僕としては、ブコウスキーって、なんかドイツの血をひいてるような、すごくモラリスティックな部分とか真面目な部分、あるいは言葉が合っているかどうかわからないんですけど、インテリジェントな部分とか、そういうのを持ちつつ、その裏返しですごく乱暴な生き方をしている人だっていうふうにとらえているんです。だから「私」っていう一人称を選ぶことによって、ブコウスキーの持っている本音の部分みたいなのが出せるんじゃないかなって思ったんですね。


越川芳明
『彷徨う日々』  スティーヴ・エリクソン  筑摩書房
ルビコン・ビーチ』  スティーヴ・エリクソン  筑摩書房
『真夜中に海がやってきた』  スティーヴ・エリクソン  筑摩書房
『ケリー・ギャングの真実の歴史』  ピーター・ケアリー  早川書房
『アルゲダス短編集』  ホセ・マリア・アルゲダス
『ペドロ・パラモ』  フアン・ルルフォ  岩波文庫
『ユニヴァーサル野球協会』  ロバート・クーヴァー  新潮文庫
『ジェラルドのパーティ』  ロバート・クーヴァー  講談社



越川氏がその昔、版権を取らずに無断翻訳(笑)したという『ユニヴァーサル野球協会』。<まああれは野球小説というよりも、野球が世界創造のメタファーとして使われているだけなんだけども>・・・これだけの記述ですごい読みたくなりました!絶対探そう!



(翻訳と評論やエッセイでは違いがありますかという質問に答えて)
ちょっとたとえ話になりますが、バスケットボールで言うと翻訳というのはディフェンスなんです。つねにマークしなければならない相手がいる。相手っていうのは原作者、原文のことで、ガードしてないと抜かれて得点をいれられちゃう。だからこっちとしては制約が多いわけで、そんなに技を使って攻めるわけにもいかないわけです。で、エッセイとか小説、評論は、好きなことを書けばいいわけでしょ、いろんな技も使えるし。だからどっちかっていうと書き物はオフェンスだし、翻訳は基本的にディフェンスだと思う。 (中略) ヴォネガットとかの翻訳をやったこともある池澤夏樹さんとか、あと高橋源一郎さんもマキナニーをやったけど、今翻訳やりませんかって聞いてみてもやりませんって言うでしょ。 (中略) 彼らは完全に攻撃にシフトを変えたんでしょう、やっぱり、攻めてシュート決めたほうがかっこいいからでしょ(笑)。


土屋政雄



イムリーなことに、今平行して読んでいるカズオ・イシグロの『日の名残り』の訳者だったんですねぇ、土屋氏。おぉ!あの『マイアミ沖殺人事件』の訳者でもあったんだ!記述師は中公文庫版は持っているんですが・・・元本はそんなに売れたんだ。うらやましい。


ということで満足の一冊でした。
やはり翻訳者の話は面白いですね。なんせ数ヶ月から、長い場合は数年かけて作品に向かい合うわけですから・・・すごい読み込み具合ですよね。文庫の解説なんかはすべて訳者に書かせるべきだとおもいます。
このカバー素敵だなぁと思っていたら、クラフト・エヴィング商會の作品でした。とても端正で、好きだなぁ。