読了本ストッカー:大傑作!! 妖怪について裏も表も知りたいならぜひ!……『対談集#妖怪大談義』


2014/6/6読了。

ご存知平成の妖怪魔王(?)京極夏彦氏による、妖怪対談集です。
◆「水木しげる/妖怪が深める師弟の絆」
◆「養老孟司/脳化社会の妖怪たち」
◆「中沢新一/ダンディな悪なる自然」
◆「夢枕獏/闘う陰陽師作家、嗤う妖怪作家」
◆「アダム・カバット/江戸の妖怪キャラクター」
◆「宮部みゆき/妖怪と心の闇をのぞく」
◆「山田野理夫/妖怪と怪談の真髄」
◆「大塚英志民俗学偽史だったのか?」
◆「手塚眞/妖怪を生み出す手法」
◆「高田衛/偉大なる我らのエンタテインメント」
◆「保阪正康/「妖怪」がわかれば「昭和」もわかる」
◆「唐沢なをき/妖怪図鑑は、愛と勝負感できまる!」
◆「小松和彦/妖怪学の現在」
◆「西山克/怪異学とは何か?」

これ、編集企画した編集者、天才じゃないかと!
対談収録の順序が完璧です。

まずは、水木しげる御大と対談。
次に「脳化」というキーワードから妖怪を俯瞰する養老孟司氏との対談。なんとなく「妖怪=自然vs都市」という対立軸を思い描いていたのですが、京極氏の
僕は妖怪とは都市が出来て初めて形をなしたものだ、つまり脳化社会がより具体的な形で顕在化したものだ、
という立場なんですね。妖怪の定義の仕方にもよるとは思いますが、一般に妖怪と呼ばれているものはほとんど江戸期に体系化されたものです。妖怪が一番跋扈した時代は江戸時代ともいえるんです。それ以前は漠然としている。もちろん精霊だとか神だとか悪霊だとかいうものはあったのですが、それはやはり妖怪の原形であっても妖怪ではないと思うんです。
になるほど~と思わされます。ここで本書の「妖怪」に対する京極氏の立ち位置がはっきりと提示されるわけです。

次に妖怪を「構造主義的」に捉えて、中沢新一氏との対談。
最近、僕は「ポケモン」についての本を書きました。あれは日本人が撲滅することのなかった妖怪、しかも江戸時代に怪異を細かく描き分けた『百鬼夜行図』に通じるものがある。水木さんが妖怪を分類しているように、ポケモンはモンスターをみごとに百五十種に分類して、構図を作っている。
なんてのを読むと、「妖怪ウォッチ」なんてまさにその類縁なんだなと思わされますな~。
中沢氏が
僕は、庚申信仰は竈と関係していると思います。解きほぐすのはなかなか難しいけれども、竈がどうして重要かというと、あれは天と地とその間、三つの世界のバランスがとれる位置にいるわけです。竈の近くにいる人間は非常に力のある存在が多い。いま残っている民話の中で旧石器時代の人類が持っていた民話に近いのは「シンデレラ(灰かぶり姫)」なんです。あれは竈の近くにいます。だからこそ、普通の家庭生活からはみ出しちゃってる。彼女は力があったものだから、動物からいろいろな助けを受けて、最終的に富を手に入れる。その際、ヨーロッパの民話の中に残っている重要な要素というのは靴の問題です。片方の靴が脱げてしまう。原型から言うと、あれは靴が脱げるという言い方じゃなくて、もともとは片足だったということでしょうね。灰の近くにいて、片足で、威力もあって、そして、動物の世界とコミュニケーションができて、天と地をバランスの取れた位置に保っている人間というのは、シャーマンといってもいい。これは、ほとんど旧石器時代に全地球上にあった話です。
とか面白すぎる!

と、ここで突然小説として妖怪を扱う実作者、夢枕獏氏との対談に、舵をきります。
陰陽師小説と妖怪小説は親戚みたいなものですからね(笑)。(中略)例えば、近代以降の妖怪の形質を決定したという意味で、器物の妖怪の台頭というのは見逃せないわけですが、これが陰陽道抜きには語れない。器物の妖怪、いわゆる「付喪神」ですね。これはですね、まず「モノの精」というのがあるわけです。(中略)しかし「精」というのは「付喪神」ではないわけです。付喪神というのは器物百年を経て霊を得る、つまり古道具です。古くなくてはいけない。古くなった「この下駄」が化ける。しかし精というのはスピリチュアリティですから、要するに下駄の精は下駄が出来たときから「全ての下駄」にあるわけですよ。これは違うものです。「精 」はおおむね人間の形をとりますが、「付喪神」は道具の形でしょう。そこが決定的に違うわけです。
と、「器物の精→式神陰陽師付喪神」を「技術者にしか使えない道具→技術→技術者→一般にも使える道具」という図式を示したりします。

次は、文化的に外から妖怪をみた、アダム・カバット氏との対談
妖怪はすばらしい文化ですよ。(中略)文化は最終的に笑いにたどりつくんじゃないですか。(中略)私、黄表紙の研究を始めたころ、図書館の古典室で読んだのですが、そこはとても静かでまじめな雰囲気なんです。ところが、笑いをぐっとこらえても、笑っちゃうんですね。
妖怪といっても、その由来を難しい顔をして探求するだけでなく、「笑いは、複雑怪奇な来歴を持った妖怪をも軽くし、そして、人々を楽しませてしまう」わけです。
その最たる人物が宮部みゆき氏。
身もふたもないいい方をすれば、本来、不思議な術なんてものは全部インチキなんですよね。僕らは古来、それを承知でつき合ってきたわけで、いわば必要悪だった。闇を担う人々は闇にあるべきで、いかがわしくあるべきなんです。表側の信仰と裏側の呪術はきちんと分けられていて、それで補完しながら成り立っていたものが、いきなり裏側のほうがオーパーグラウンドに引きずり出されてしまったような気がします。
その結果
近代以前は迷信がまかり通っていて、呪術的なものが公に信じられていたんだという錯覚があるわけですが、僕はまったく逆なんじゃないかと思うんです。昔はお約束が社会的に機能していただけで、信じているというならむしろ今なんじゃないかと。(中略)自分もふんばれば宙に浮くんじゃないかとか信じちゃうわけでしょ?
とか、なるほど!
個人の願いをかなえるとか、嫌なやつをのろい殺すなんてのは、邪法だったり外法だったりするわけでしょう。正しい法ではないんですよ。(中略)そうした暗部を担う人たちには、やはり闇の住人でいてもらわないと困るんです。なぜなら、そうでないと呪術がきかないの(笑)。
と闇を駆逐することで、逆に失われたものについて語ります。
闇の部分をまったく見せないというのはやはり問題なんじゃないかと思いますね。(中略)実際、それでおまじないとかが流行っちゃうわけでしょ。おまじないが実際に効いたらそりゃ大変なことですよ。
そうした状況下(あっけなく人が死んでしまうような:引用者注)だったなら、無意味に人を殺したりすることはばかばかしいことと誰もが知っているわけです。アリを踏むのも人を殺すのも変わらないんだと心得ているということは、アリの命も人の命も、命の尊さに変わりはないんだ、と知っているということでもあるわけでしょう。だからこの状況は、現実の命が軽くなっているんじゃなくて現実に対する幻想が肥大した結果なんじゃないでしょうか。

そうした「人」を特別なものとする考え方が
幽霊なんてものは近代化とともに排除されたような錯覚を持ってますでしょ。でも違うんじゃないか。僕らの知ってる幽霊は明治頃から出始めて、高度経済成長期に人権というか、幽霊権を持ったのじゃないか。なぜなら江戸時代、幽霊は妖怪の一種だったんです。(中略)妖怪という呼び方は最近のものですから、当時は「化け物」だったわけですが、これは「物」が「化け」るわけです。狸も化ける、狐も化ける、茶碗も化ける、ほうきも化ける、人間だって化ける。だから、死霊、生き霊、幽霊、この辺は全部人間が化けた化け物の種類。お化けですね。河童とか、天狗とかと変わらない、幽霊という種類。ですから、個人の幽霊というのは特別な例なんです。妖怪としての幽霊は、要するに「幽霊ちゃん」というキャラクターなんですね。(中略)それがある時期気づいたんですね。「待てよ、たかが動物や道具と一緒にされてたまるかい、こちとら偉い人間サマっぞ」と。それで幽霊は妖怪から分離して独立ジャンルとなっちゃう。(中略)「たとえ死んでも俺の個性は生き残るよな」という考え方ですね。強い自意識の表れといいますか。幽霊というのは死後の自我保存なわけです。死んで何だかわけのわからない物になっちゃうんだったら幽霊になる意味がない。誰々さん何々さんという固有名詞が残らないと、今は幽霊とはいわないじゃないですか。少なくとも個人としての属性は確実に残っている。そういう意識って、やっぱり近代以降になってはっきりしてきたものなんじゃないでしょうか。(中略)それ以前、固有名詞の残る霊は、神に祀り上げられた怨霊だけだったんです。それが今は誰でもOKでしょう。ぽこぽこ写真にまで写っちゃう(笑)。

次は1922年生まれの山田野理夫氏と、柳田國男についての対談。
そしてその柳田や折口信夫が登場する小説を書いた大塚英志氏が登場です。
大塚:柳田の論考っていうのはどれをとってもファミリーロマンスなんですよ。孤児が自らの出自を求めるっていうのが共通のモチーフで新体詩の詩人の頃からそういうファミリーロマンスをテーマにしている。だから山人論っていうのも実はファミリーロマンスの枠組に民俗事象を再構成しているんで、読む方もぐっときちゃう。(中略)だから民俗学の本質はインチキ古代史、偽史だって思わないと。これは僕が大学を離れてものを書き始めた時に、柳田の弟子でもあった僕の先生の千葉徳爾先生に言われたことで、突然、ハガキが来て、民俗学偽史だから、君はそっちのほうを少し研究しろって。目からウロコが落ちましたね。

次いで、漫画王の息子にして映画監督手塚眞との対談。妖怪好きなんですねぇ。今度はビジュアルからの妖怪です。
と、ここで突然学術的な方向に! 国文学者、高田衛氏の登場です。
八犬伝を構造的に読み解いた著作が有名ですが、京極氏の著作を結構読んでいることが判明! これまでの対談と違って、京極氏へインタビューする的な立ち位置です。しかも二回対談しており、後半は『八犬伝』についての対談。

今度はノンフィクション作家保阪正康氏との対談。
がらっと趣向を変えて、唐沢なをき氏との妖怪図鑑閲覧会へ(笑)。
ラストは民俗学者小松和彦氏、歴史学者西山克氏との対談。がっつりと学術的に語ります。

決して対談時期順ではなく、意味のある順序っていうか……(そこまで考えてなかったりして?)とにかく絶品の対談集でした!