読了本ストッカー:虚学でも、実学でもなく……『算法少女』


2013/12/26読了。

文系の私にとっては数学者というのはあこがれ!
冲方丁氏の『天地明察』も大ヒットしたところをみると、日本人はみんな好きなんでしょうね。

1775年に刊行された実在の和算書『算法少女』。その成立の過程を描く歴史小説です。もともと岩崎書店から出ていた児童書なのでとても読みやすい一冊です。
医者である父から算法の手ほどきを受け、メキメキを力をつけている町娘のあきは、ある出来事から大名の娘の算法指南役へと召し出されることに。しかし当時の日本では算法の各流派が些細なことで対立しており、流派に属さず、しかも町娘のあきを快く思わない人々が妨害をはじめ……というストーリー。

あきは町の子どもたちに算法を教えているのですが、そこに九九を教える場面が出てきます。ちょうど今、長女が小学校で九九を習っているので、「そっか~江戸時代から、ににんがしって言ってたんだなぁ」と感慨深い思いに。
本書によると、九九はすでに万葉集にも出てくるんですね! 二千年近くも前からあると考えたらちょっと感動。

本書では「算法」に対する考え方がいくつか出てきます。
学校の日本史では、江戸時代から寺子屋もあり、「読み書きそろばん」というくらいだから、識字率も非常に高かったと習いますが、本書によると、当時の日本では儒学などこそ学問と考えられていたとのこと。
つまり「算法」はそろばんくらいができればよいと考えられており、逆にそろばんに代表される商いに必要な面が強調されて、卑しいものという捉え方が一般的だったようです。

主人公あきの母も、「女の子がそんなことをして!」という捉え方。大名に召されることに対しては、一応名誉なことと考えますが、それは上の方に繋がりができるかも、という考えがあってのことです。
あきの父は、男だから女だからという思想からは解放されており、あきの勉強を支援してくれますが、彼は算法を「壷中の天のたのしみ」、つまりこの世とは別世界の楽しみと考えています。しかも自らが学んだ上方算法を馬鹿にする江戸の関流(関孝和の流派)を目の敵にしています。
また関流の人々も、上方算法を商用の卑しい算法と馬鹿にし、流派ごとにむやみに争っています。

しかし、あきは
「わたし、おとうさんの意見とも、おかあさんの考えともちがうわ。算法を勉強するのは、もっとべつの、なにかのためと思うわ」
と考えます。
あきの考えを決定づけたのは、本多利明という算法家。
利明は言います。
「女であれ、男であれ、すぐれた才をもっている人は、だれでもおなじように重んじられなければならない。それをどうです。いまこの国では、どんなにすぐれた才をもっている人でも、身分がひくかったり、じぶんたちの仲間にはいっていないと、その才能を認めようとしない人がおおいのです。女のひとを一段ひくくみて、男にはとてもかなわないというかんがえかたも、同じことです。げんにあなたは、これほどふかく算法を修めている」

「ところが算法家の世界では、この国のなかでさえ、他流のしごとをみとめようとしません。まして、西洋の算法など、あたまからばかにして、うけつけようとしない。わが国の算法家の学力がりっぱなものであることは、この鎌田氏の研究ひとつをみても、よくわかります。しかし、この国の算法に西洋の算法をとりいれれば、研究はもっともっとすすむはずです。いや、そうしなければ、われわれはたちおくれてしまうのです」

「いったい、算法の世界ほど、きびしく 正しいものはありますまい。どのように高貴な身分の人の研究でも、正しくない答えは正しくない。じつにさわやかな学問です。だんじて遊びなどではない。それを、この国では、一方では算法を金銭をかぞえる道につながるとしていやしむかとおもえば、また、たんなる遊び、実利のないものとして、軽んずる風がある。これにたいして、西洋はどうか。わたしはオランダの本を通して、すこしずつ西洋の事情がわかってきましたが、かれらは算法を重んじます。それは、その底に、正しいものを冷静にみとめるかんがえかたがあるからともいえます。そのけっかはどうか。その航海、天文などの術は、われわれの想像もできないほど進んでいるのです。この国の、算法にたいするかんがえかたを、かえなければならない。いや、それは、世のなかのすべてのかんがえかたにも通じますが、まず手はじめが算法です」


真実、この時代にそういった考えを持った人たちがどれほどいたのかは、不勉強なのでわかりませんが、勉強ってそういうものだったよなあーと、強く思わせてくれる本でした。