読了本ストッカー:読むことは、書くことと同様、大きな創作……『北村薫の創作表現講義#あなたを読む、わたしを書く』



2013/5/16読了。

北村薫師は、関係をすくい上げることに抜群の力を発揮する、と改めて感じます。
どういうことかというと……

例えば、「鷺とり」という桂枝雀得意の演目についての文章。
五重塔から飛び降りる主人公を、布団の四隅を持ったお坊さんたちが受け止めようとして、主人公は助かったけど、お坊さんたちが頭をぶつけ合って死んでしまうという話らしいのですが。

そこで北村氏は

一人助かって、四人死んだん。
という、落ちでした。
これが素晴らしかった。
残酷と評したら、的外れです。(中略)そんな落ちが演者の個性と溶け合って、類い稀な効果をあげていました。


と書きます。
しかし晩年の枝雀は、トランポリンのようにぴょーんと戻っちゃったという落ちに変えたらしいのです。

無残だと思いました。
高い低いといえば、こちらの方が明らかに低いように思えました。《それでも枝雀さんは、こうせざるを得なかったんだろうな》と感じました。つまり、わたしは、本来の落ちの《四人の死》に、枝雀さんの繊細の神経が耐えられなかったのだろう、と思ったのです。これは、よく分かる。表現者の突き当たる、深刻な問題です。
話はそれを要求している。しかし、生身の人間である演者は耐えられなかった。表現者は、このように心を削られる。その相克が無残に思えたのです。


でもなんと、これはそういうことじゃなかったらしいのです!

枝雀がアメリカで演じたとき、四人も死ぬなんて!というクレーム(?)があり、こういう形に落ち着いたらしいのです。つまり、真実ではなかった。しかし北村氏はこう「読んだ」。

こうじゃないか?ああじゃないか?と考える。その飛躍が北村氏の持ち味だと思います。そこにはものすごい量の知識がある。
だからこそ、間違っていたとしても(客観的事実といわれるものと食い違っていたとしても)凄みがある!

後を追いかけるのは楽。物まねの真似をするんなら、素人でも出来ます。それは別に、当人の真似をしてるんじゃない。真似の真似です。
同じことです。最初に評価をくだす。ある作品の輝きを見いだせる人こそ、本と読者の間に立つことを許される。
定評を追いかけたり、弱々しくごく常識的な判断をしているだけなら、それは自分をかけて読んでいることにはならない。だから、きちんと読むには、大変な力がいります。読むことは、書くことと同様、大きな創作なんですね。


この飛躍に昔はついていけない(トレースしきれない、という意味です)と感じましたが、最近は心地よい記述師なのでした。