読了本ストッカー:自らも加害者ではないか、と常に省みるために……『33個めの石』



2012/6/13読了。

タイトルの「33個めの石」とは、2007年にアメリカ・バージニア工科大学で起きた学生による銃乱射事件に由来するもの。
32人もの犠牲者を出した事件後、被害者の追悼集会が行われ、キャンパスには、33個の石が置かれました。
「33個めの石」とは、事件直後に自殺した犯人のために置かれたのでした。

果たして、人を「赦す」ことは可能なのか?
ここを深く考察する本かと思いきや、短いエッセイ集でした。その答えは出ていません。

拍子抜けして読み進めたのですが、読めば読むほど考えさせられる本でした。
エッセイなので、著者の深い考察が書かれているわけではありませんが、著者紹介に書かれている「自らを棚上げすることなく」という表現に納得。常に「自分も荷担しているかも」という視点を持ち続けていて、ハッとする言葉がたくさんあります。

例えば、

ある日、大学のグラウンドのそばを通っていると、コートでアフリカ系男性たちがバスケットボールをして遊んでいた。ところが、彼らはバスケットが異様に下手だったのである。(中略)それを見たときに、私はショックを受けてしまった。なぜなら、私のなかには、アフリカ系米国人はみんなバスケットが上手なはずだという偏見があったからである。そしてそれは、一歩間違えれば、本物の差別にむすびつきかねない偏見だったのだ。

(左翼系の新聞が、資本主義経済に浸かりつつ、紙面で資本主義を批判することに)もちろんその批判は無意味ではない。ただしそれは、批判する自分自身もまた批判対象に組み込まれているという事実を、彼らがどこまで深く認識しているかに、かかっているのである。そしてこの点を指摘しているこの私もまた、その批判対象に組み込まれていることは言うまでもないのである。

(欧米の資産家たちが、東南アジアの貧しい地域を観光するツアーに参加するテレビを観て)テレビには、上半身裸の子どもたちの頭を優しくなでる、裕福そうな金髪の白人女性が映っていた。罪悪感はないのかと問われて、彼女は「私たちがこうやってお金を落としていくから、彼らのためにもなるわけで、これは彼らにとっても良いことなのです」と答えた。
(中略)現地の子どもたちが貧しさから抜け出せないのは、裕福な国の人たちが、これまで、「現地に行ってお金を落とす」というような行為しかしてこなかったからではないのか。(中略)だが、ふと我を振り返ってみたときに、貧しい人々の窮状をテレビで見て同情しているだけの自分と、この女性のあいだに、いったいどのような差があるのかと問わざるを得なかったのも事実なのだ。考えようによっては、実際に現地に行って、ありのままの状況を観察し、子どもの頭を自分の手でなでてきたこの女性のほうが、私よりも数段ましなのではないかとすら思えたことを、私はここに告白しておかなければならない。


長い引用になりましたが、さらにひとつ引用すると

(広島での学会でアラブ系の学者が「広島は本当に特別なのか?」と発言したことを受けて)たしかにゲルニカも、ドレスデンも、重慶も、この世の地獄であっただろう。「こちらの地獄のほうが、そちらの地獄よりも特別だ」とは言えないと指摘されれば、たしかにそのとおりかもしれないと私も思う。と同時に、私はその学者に、「アラブの歴史を振り返ったとき、比較を絶する特別の惨事だとしか言えない出来事がなにかあったのではないか」と聞いてみたかった気がする。
突き放して考えれば、広島の惨事のみが特別の地獄だったわけではない。だが、広島を血肉として生きてきた人にとっては、そこのみが特別な地獄だったのであり、それは誰によっても否定されてはならないことのように私には思えたのである。


自らもその一員かもしれない、という自省を常に持ち続けることは難しいことだけれど、すくなくともそれだけは忘れないようにしようと、考えさせてくれる本でした。