読了本ストッカー:日本人より日本人らしい「シブミ」を会得した暗殺者!……『シブミ㊤』

シブミ〈上〉


トレヴェニアン  ハヤカワ文庫


2007/6/5読了。


本書は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2004年11月号で紹介されていて知りました。当時は品切れだったらしく、気長に探そうと思っていたら、去年(おととし?)くらいに奇跡の新装版復刊!書店の店頭で見かけたときは、思わず「おっ!?」と言ってしまいました。
おそらく映画『ミュンヘン』の公開に併せて復刊されたのではなかったかと。


主人公のニコライ・ヘルは、上海で白系ロシア人の母とドイツ人の父の間に生まれます。日本人の岸川将軍を育ての父として育ち、第二次世界大戦中は、岸川将軍の友人で棋士でもある大竹七段のもとで囲碁の修行をします。なんと上巻では、そのほとんどがニコライの日本での生活の描写に割かれます。


本書のレビューに必ず書かれているのは、その日本の描写の正確さでしょう。海外作品における「日本」の描写は、「またやっちゃった!」になってるか、意識的にパロディ(『キル・ビル』みたいに)にしちゃってるか、が多いですが、本書は本当に違和感なく読めます。かなり日本を過大評価してくれてますが(その代わり、アメリカやソ連はけちょんけちょんです!)。


ニコライは、岸川将軍の次の言葉によって、「シブミ」のある人間になることを人生の最終目標とします。



「おまえも知っているように、シブミという言葉は、ごくありふれた外見の裏にひそむきわめて洗練されたものを示している。(中略)シブミは、知識というよりはむしろ理解をさす。雄弁なる沈黙。人の態度の場合には、はにかみを伴わない慎み深さ。シブミの精神が〈寂〉の形をとる芸術においては、風雅な素朴さ、明確、整然とした簡潔さをいう。シブミが〈侘〉として捉えられる哲学においては、消極性を伴わない静かな精神状態、生成の苦悩を伴わない存在だ。そして、人の性格の場合には・・・・・・なんといったらいいか? 支配力を伴わない権威、とでもいうのかな? なにかそのようなものだ」


「渋み」や「侘」「寂」といった概念にはいろいろな意見があるでしょうが、海外小説でこんなに理論的に語った作品ははじめて読みました。日本人でもなかなかこうは説明できないと思います。


会話もしゃれています。ニコライはある事情により捕らえられ、拷問を受け、独房に監禁されるのですが、そこに取引にやってきた役人との対話・・・



「われわれは、誰かにある仕事をやってもらう必要がある。あなたはそれをやる能力がある。われわれはその対価としてあなたに自由を与える」
「わたしには自由がある。あなたがいっているのは、対価として自由の身にしてくれる、という意味だ」
「どちらでも」
「どのような自由を申し出ておられるのだ?」
「えっ?」
「なにをする自由?」
「あなたのいう意味がよく判らないな。自由の身だ。自由。したいことをし、行きたいところへ行けるんだ」
「なるほど。あなたは、市民権と相当額の金を与えることを申し出ているのだ」
「いや・・・・・・そうじゃない。つまり・・・・・・いいですか、わたしはあなたを自由の身にすることを申し出る許可は受けているが、誰も市民権や金に関しては、何も言わなかったのだ。(中略)えー・・・・・・わたしはただ、金と市民権の問題は一度も検討されなかった、といってるだけなんです」
「なるほど」 ヘルが立ち上がった。「そちらの提案の具体的な内容が決まったら、またおいでになるといい」


とても監禁されている人間の発言とは思えません(笑)。



「われわれがやってもらいたがっている仕事については、なにもきかないのですか?」
「きかない。最高度に困難なものであるはずだ、と推測している。きわめて危険。たぶん、殺人も含まれているのだろう。さもなければ、あなたがここへくるわけがない」


・・・理系だ・・・森博嗣のにおいがする(深読み)。


この勢いのまま下巻に突入しましょう。